鈴木 ひとみ (すずき ひとみ)
ミス・インターナショナル、ファッションモデルから交通事故で車いす生活へ。その後、アテネパラリンピックで活躍。共存・共栄のバリアフリーな社会を目指して精力的に活動中。
ジャンル
政治・経済 | オリンピック・パラリンピック |
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スポーツ | 夢・チャレンジ、オリンピック |
主な講演テーマ
パラリンピックが私にくれたもの ~ 残された能力を受け入れ、引き出していく限りなき挑戦で得たもの ~
障害者となった当時、私が一番辛かったのは体の自由が利かなくなったことではありません。 それは、誰の役にもたたない、社会の荷物になってしまったのではないか、という言いようのない疎外感でした。車椅子に乗った当初は貧血で気を失っていた私が、車椅子陸上の世界大会で金メダルを取り、射撃でアテネパラリンピックに出場することが出来ました。様々な葛藤を経て、やがて自分の人生を素直に受け入れ、今は悩みながらも成長することの喜びを味わっています。「障害者はこう生きるべきだ」という基準などありません。それは自分自身で決めること、そのためには障害を受け入れ、自分の残された能力に期待をすること、だと思います。
『人間』の価値って何? ~ 生まれ・障害・性別で変わるものではないはず ~
カナヅチな人、音痴な人は、泳げない事や唄が下手な事に対して劣等感を抱く事はあっても、人間全体の価値まで劣っているとは考えないのが普通です。ところが、一旦、障害者となると、本人も周囲もその人間性すべてを否定的に考えてしまいがちです。横並び意識の強い日本社会の中で、等しいはずの人間の価値が、一部の身体的能力や、生まれ育った環境によってなぜ歪められてしまうのかを考察します。
ファッションモデルより車いすの今を幸せに思う理由 ~絶望、愛、飛躍~
19才、ミスインターナショナル準日本代表に選出されました。ファッションモデルとして活躍中の22才の時に交通事故で車いす生活となりました。自死すら思った絶望の淵から救われたもの、それは恋人の変らない愛。車いす陸上からチェアスキー、そして射撃でアテネパラリンピック日本代表となる。諦めない心が第二の人生を切り開く。そして今、胸を張って言えます。ファッションモデルより、車いすの今が幸せだと。苦難を乗り越えたエピソードを話し、それぞれの人が悩み解決へのヒントにして欲しい。たとえ障害があっても社会の一員として誰かの役に立ちたい。歩いていた頃よりも、もっと成長した生き方をしたい。実践してきた具体例を話します。
車椅子からの出発(たびだち) -絶望のどん底から這い上がるまでの軌跡-
22才で車いす生活になった当時は、障害者とは「諦めの人生」のように思っていました。リハビリから車いす陸上の世界大会で金メダル、そして射撃でアテネパラリンピック日本代表となる。車いすユーザーが仕事や家庭を持ち、スポーツをすることは今や驚かない社会となりました。さらに、自分の自立のみならず、他人の役に立ちたい、これが車い障害者が目指している目標です。車いすは不便だけれど不幸せではない。幸せは自分でつかみ取るもの。弱い私が強い心を持っていると言われるようになるまでの軌跡を話します。
合理的配慮の提供義務について ~ユニバーサルデザインとバリアフリーの違いはご存じですか?
平成28年4月に施行された障害者差別解消法から数年が経過しました。この間、「合理的配慮の提供」について具体的な事例が出て参りました。2018年10月 東京都では差別解消を目的とした条例が施行されました。 これは「合理的配慮の提供」が「努力義務」から「義務」に変わりました。しかし、事業主からは戸惑いの声が上がっています。
「解決に向けた協議の負担が大きい」「バリアフリー化には費用がかかる」といったものです。しかし、本当にそうでしょうか? よくよく聞いてみると、その多くは「過剰に反応している」場合が多いです。「合理的配慮」についての理解不足や誤解をされているように感じます。「合理的配慮の提供」は決して過度の負担を求めるものではありません。コミュニケーションを取ることで解決できることも沢山あります。「合理的配慮の提供」は、コミュニケーションの提供であるとも言えます。そのことを、わかりやすく説明をさせて頂きます。合理的配慮を考える時、それは障害者、高齢者のみならず、国籍、性別、年齢、家庭や生活環境の違った人達と共に生きる社会を実現させることであると思います。難しく考えるものでもなく、お互いの事情をわかり合い、自分に何ができるかの折り合いを探していくというもの。心地良さや気持ちよさに通じるものがあると思っています。
同時にUD、バリアフリーの違いは何か?をお伝えしたい。2020年東京オリンピック・パラリンピックへ向けて、ハード・ソフト両面の配慮が、2020年以降の遺産になることを願います。
スポーツを通して『人権』を考える
射撃の国際大会に出場するようになり、海外を転戦してみて肌で感じるのは「この種目は西欧で生まれた男性のためのもの」ということです。今は戦争や決闘の武器としてではなく、誰もが楽しむスポーツとして確立されていますが、国を代表して世界レベルの戦いをしていると、目に見えない多くの壁に気づかされます。日本で暮らす限り、私のハンディキャップは車椅子に乗っていることだけですが、場所や環境の違いによっては、東洋人であること、女性であることもハンディとなり、私の障害は増えたり減ったりするのです。射撃というスポーツを通して、社会の中にある見えない壁とは、人間の権利とは、平等とは、という問題提起を行います。
悩みながら前を向く ―いじめ、命の大切さ、生きる力を育む―
聴講対象者:学校/PTA/教職員
いじめに遭って、一番辛いことは何でしょうか?
いじめにより自殺にまで追い込まれる子供達、そして現在、日本で一番自殺が多いと言われる40代、50代の男性、両者に共通することは「孤独」ではないでしょうか。私自身のことを申せば、私は22歳の時に交通事故で車椅子の生活となりました。医者から「一生、車椅子生活が続く」と宣告された時は自ら死を考えました。その後、当時を振り返ってよく考えてみると、「車椅子イコール死にたい」ではないのです。車椅子生活になったため、もう社会から必要とされない人間になった、以前の友達が離れていくに違いない、一人だけ別の世界に取り残された、という思い、つまり孤独が死を結びつけていたのです。幸いにも恋人の変わらない愛、親や友人達の支えがあって、私は障害を克服することが出来ましたが、実は同じ思いを小学生の頃にも経験しています。
いじめられていた自分を恥だと感じ、小学生で負った心の傷は今も消えない、その後の人格形成にも影響しています。それでも幸せになれます。辛いことや苦しいことの経験は決して無駄に終わらない。生きていれば必ず春がきます。相談出来る親や友達も居なくて、じっと1人で耐えている子(人)もきっと居るでしょう。でも、どうか死なないで。何故なら、人生は10代より20代のほうが楽しいから。20代より30代のほうがもっと楽しい。「車椅子でも?」と思うかもしれませんが、車椅子であってもなくても、そうです。
息を潜め、孤独と戦っている見えない相手にメッセージを送ります。この世に生を受けたこと、それ自体が最大のチャンスではないでしょうか。
ユニバーサル・デザインについて ~ 地道なユニバーサル・デザインの実践が社会を豊かにします
障害者にとって使い勝手が良いだけでなく、一般の利用者にとっても快適な施設を作ることは可能です。それらは矛盾するものではありません。私は車椅子を使っていますが、他の部分は健康で、腕は平均的な女性よりも力があります。もし建物に段差が無ければ私は障害者ではなくなります。
障害を持つ人が同じスタートラインに立つために必要な設備は確かにありますが、それは「障害者専用」である必要はありません。ユニバーサル・デザインを増やすことにより、ハンディのある人が社会参加出来る、またそれが社会全体の最適化にも繋がる、これが私の考える福祉の本質です。 「ビジネスチャンスとしての障害者マーケティング」 「1年に1~2人しか利用者がいない」という理由で、障害者用駐車場や設備を違法に撤去したビジネスホテルが話題となりましたが、米国では、身体障害者法の施行以来、全米4300万人の障害者はその行動範囲を広げ、自ら仕事をし、お金を稼ぎ、買い物をする一大購買層となりました。結果平等ではなく、機会平等を求める米国の福祉の精神について考察すると共に、日本では未開拓なセグメントである障害者向けビジネスの可能性に注目し、新たなマーケティングのヒントを探ります。
講演料
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プロフィール
82年度ミス・インターナショナル準日本代表。ミス・ネーションズ世界大会でミス・エレガンスに選出される。その後ファッションモデルとして活躍。84年に交通事故に遭い、車いす生活になる。その後、イギリスでの国際競技大会で車いす陸上において金メダルを獲得。アテネパラリンピックの射撃日本代表。2016年車いすカーリング日本選手権で準優勝。
現在、講演活動の他、企業のバリアフリーのアドバイス、NHK障害福祉賞の審査員を務める。著書が『車椅子の花嫁』と題してドラマ化。「徹子の部屋」「クイズ$ミリオネア」「ザ・ベストハウス123」「アンビリバボー」「笑ってこらえて」他多数出演。
著書は「一年遅れのウェディングベル」「気分は愛のスピードランナー」また、「命をくれたキス」(小学館)は台湾・韓国でも翻訳されている。共存・共栄のバリアフリーな社会を目指して精力的に活動中。